2005/8/8 追記
【 富津岬の昔と今 】
今年になってから、富津から館山にかけて、ぶらぶら釣りに出かける機会があり、たまたま富津岬にも寄ってみた。同行した人間が富津岬の展望台に昇りたいと急に言ったのが原因だ。去年の夏頃には展望台は工事中で、昇ることを禁止されていた。だから私も展望台に昇ったのは5年ぶりくらいだろうか。まずは昇った感想というより、かつての岬と今の岬のことについて触れてみたい。
昨年このページを作る際にも書いたことだが、岬の先端が短くなってしまった。私が小学校の頃は歩いて渡ったこともあったし、古い地図では確かに繋がっていた。しかし、小学校の高学年の頃になると、干潮のときでも歩いて渡るには約5−メートルくらい膝丈くらいの水に浸かるようになっていた。
右の図が現在の富津岬である。(ヤフーの地図を流用させて頂いた。)
岬の沖のほうに、島があるが第一海保という人口の島で、かつて東京湾上空から東京を目掛けて飛来したB29爆撃機に向けた高射砲があった場所である。一方釣り好きにはこの島、更に沖の第二海保はメッカでもある。(本当は立ち入り禁止なんだけど。)
ご覧のように、島と岬は離れてしまっている。だいたい2キロメートルは離れているだろうか。 |
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ところが、かつては右図の破線のように、島まで繋がっていたのである。関東の天の橋立と言われたくらいの名勝地だったのだ。
どうして、今離れてしまったのか、以前新聞の千葉版の解説を読んだのだが、どうやら岬の付け根辺りに河口がある小糸川上流の山の切り崩しなどが原因らしい。もうだいぶ前の記事だったので、記憶があやふやだが。 |
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左がリニューアルした展望台。リニューアルといっても以前とあまり変わっていないようだ。いや、以前はかなりボロボロになっていたかもしれないので、かなり大掛かりな補修工事だったのかもしれない。
さて、続き。
この展望台に昇って驚いたのだが、なんと、島まで繋がっていたのである。いや、正確に言えば、途中で切れているけど、かなりの部分が復元していた。 |
岬が繋がった???(証拠写真その1)
左側の消波ブロックのある堤防が現在の岬の先端で、その向こうに第一海保が見える。しかし、よく注意してみると、右側に砂州が出現しているのだ。
これは驚き!
もっとも思い切り干潮だったこともあるのだが、何度か干潮のときに来ていても、これだけ砂州が露出していたのを見たのはここ十数年無かったことだ。 |
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証拠写真その2(ほら、もう殆ど繋がっているではないか!!)
もっとアングルを引いた写真がこれ。一番左に先ほどの消波ブロック。そして、島から延びている砂州は大きく迂回して岬のすぐそばまで来ている。またちょうど写真の中央の白波が立っている部分は殆ど砂地が露出しそうなくらい浅瀬になっている。
7月に起きた大きな地震のせいだろうか!!!???
いずれにしても、この件についてはまた近々行ってみて様子を見てみようと思う。もちろん、これだけ砂州が見えたことを私だけが感動しているだけで、実は、「そんなのしょっちゅうだよ!」と言う方もいらっしゃるのかもしれないし、まあ、そうだとしたら、このページのこの文章は見なかったことにしといてください。(笑)
ところで、全然違う話題になってしまうが、もうひとつ驚いたこと。それは、上の写真の水平線のところに大きなガスタンクを備えたどでかい船が航行しているのが見える。距離からいって、第一海保のかなり沖を航行しているのだ。ということは島よりもかなり大きいということだ。
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こちらは陸地側、即ち房総半島に向かっての展望台からの景観である。左右のどちらも海というのがよく分かると思う。そう、まさに天の橋立のような風景なのだ。
この景色、もう何度となく見慣れたものだが、久々に観たことで新たな感動だった。この岬は国定公園なのに、どうもゴミが散乱しているのが気になるところ。他の観光地もそうなのだけど、なんで日本の観光地はゴミだらけなんだろう。皆さん、ゴミはちゃんと持ち帰ってください。 |
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