ベイタウン旅行倶楽部

約20年ぶりに訪れた渡良瀬川の三国橋(1982/3/28 撮影)

二十年ぶりの古河へ
1982年3月28日
幼い頃、僅かな期間だけ暮らしていたのが古河だった・・・



古河に向かう途中。おそらく幸手市の権現堂辺りだと思う。向こうの鉄橋は東武鉄道。
3月28日(日)快晴
自分が昔住んでいた場所に行くということはなんとなく照れくさくもあり、嬉しくもあり、哀しくもあり、もちろん懐かしくもあり、といった感じ。私が幼少を過ごした街、そこは利根川と渡良瀬川を境に、埼玉、栃木、群馬に接する茨城県古河市。時々、古河に行ってみたいとぼんやり考えていた。実家の木更津には殆ど帰らないくせに、何故数年しか住んでいなかった古河に行きたいのか、自分でも良く分析できていない。でも、そこに行けばきっと何かが見つかるだろうと思った。

国道4号線をバイクで走る。快晴だが風は冷たい。桜が満開だった。まるでタイムマシンに乗っているように時代を遡ってゆく。二十年近い歳月の中から少しずつ記憶の糸を手繰り寄せる。都内からさほど遠くはない行程とはいえ、気温が低いので、ゆっくりと走った。足立区が終わり、埼玉県に入ると急激に景色が田舎になる。そして、埼玉県幸手町、栗橋町を過ぎると、懐かしい古河市だ。利根川橋が見えてきた。その橋を渡るとあの街である。胸がきゅーんと締めつけられるようだ。激しいものがこみ上げてくるようだ。まずは栗橋側の土手の上にバイクを止めて、タバコに火をつけた。空は青く、ひばりの声が高いところで聴こえる。小さい頃、麦畑で凧揚げをやっていた時のことを断片的に思い出す。凧揚げをしていたときにも確かひばりの声を聴いていた。

左: 利根川沿いの栗橋町。古河へ向かうときに撮影したが、古河から東京へ向かうときに利根川を渡ってすぐこの標識に出会う。
右: 利根川。向こう側が茨城県総和町。その頃は総和村だったかもしれない。その隣が古河市だ。

橋を渡る。ゆっくりと。どことなく気恥ずかしくなった。誰かに見られているような気がした。そんなことはありえないのだ。ハタから見たら単にバイクに乗っている若造にしか見えない。橋を渡ると古河市の標識があった(写真右)。ちょっとどきどきする。過去を果たして探せるだろうか。あまりにも変ってしまったような気もする。国道4号線沿いに、この辺り特有の雑木林が広がる。起伏がないのに森や林があるなんて、実家のある千葉県ではありえないことだ。いや、北東部にはそういう景色があったかもしれない。典型的な内陸性の風景なのかもしれない。そういえば、薄っすらとした記憶では、幼稚園の時に母親に「きのこ狩り」に連れていってもらった。あの「きのこ狩り」の森もこんな感じか。


左: 畑の中にこういう雑木林があり、子ども達の格好の遊び場になっている。
右: セキスイ化学の工場。あまり昔と変ってないような気がする。

セキスイの工場が見えてきた。この工場は昔からある。このネオンが、引越しの夜に窓ガラスににじんで映っていた。漆黒の闇の中にセキスイの赤い文字がぽかんと浮かんでいたのが印象的だ。その周辺は畑が広がる。青く澄んだ空からはひばりの声。バイクを駐める。セキスイの工場の所から自衛隊の古河駐屯地が見える。松林の向こう側だ。その昔、私の父が勤務していた自衛隊だ。自衛隊に向かってゆっくり歩く。赤十字の病院。いつか父が盲腸で入院していたことがある病院が自衛隊の前にあった。

ずっと昔、この近くに住んでいた頃、米軍の飛行機が墜落したのを思い出した。誰かと畑の中の機体の残骸を見た。ご近所さんたちと見に行ったのかもしれない。大勢の人が集まっていた。搭乗員はパラシュートで降りて無事だったと記憶している。4歳くらいの頃なので、かなり記憶が曖昧である。その頃、世間を騒がしていた事件は吉展(よしのぶ)ちゃん事件があった。古河の記憶を辿ってゆくと、その米軍機の墜落と一緒に忌まわしい誘拐事件が一緒に思い出されるのだった。


左: 畑の中にある自衛隊の駐屯地。赤白の鉄塔は昔からあったのか覚えていない。でも、特徴的な給水塔があったような気がする。右側は航空機の格納庫。
中: 門に掲げてある手書きの表札。味がある。
右: 門を入ってすぐのところに展示してある双発のヘリコプター。撮影はここまでしか許されないのだ。

自衛隊の門に深緑色の制服を着た自衛隊員がいた。父も昔これを着ていたのだろうか。カメラを出してその辺りを撮りまくった。父の若かりし頃の思い出の場所を突然見せてびっくりさせようというつもりだった。写真を酒の肴にしながら、古河の話題で盛り上がろうと考えた。だが、門の中の若い自衛隊員に呼び止められた。撮影してはいかんということだ。撮影には許可が要るそうだ。面倒だ。理由を話すのもなんだし、立ち去ろうと思った。

その隊員が人懐っこくいい感じの人だった。どうして撮影したいのか、尋ねてきたので、ここに来た理由を簡単に説明した。隊員は、「ちょっと待ってて。」と、たぶん同僚か上司を連れてきた。そしてその人がもっと上の人(だと思う)を呼んできて、詰め所(たぶん門番の詰め所なのだと思う)の中に入れてもらった。お茶も出してくれた。自衛隊OBの息子ということでの特別待遇だった。

風は冷たいが日差しは暖かで、そんな静かな午後、自衛隊の駐屯地の中でお茶を飲みながら、自衛隊の方々と話をする。いい人達だった。色々な機密があるだろうから、無難な話だけだったけど、戦車のこととか、戦闘機のこと、昔はどこの中隊に誰がいて、のような話もしてくれた。私も、父が昔、ここで銃剣道の師範をやっていたこと、千葉で事業を始めるに当たって、自衛隊の部下や仲間を引き連れて行ったことなどを話した。

時が経つのはあっと言う間。やや陽が傾いてきたので、皆さんにお礼を言い、外に出た。撮影は結局許してもらえなかった。年に一度、一般市民が中に入れるお祭りがあり、そのときはOKなのだそうだ。仕方ない。自衛隊の前から斜めに走る道から再び国道に戻り北へ進む。専売公社の大きな倉庫が見える。この近くだ。強烈に懐かしい場所に近づいている。そう、私が住んでいた場所なのだ。

左: 駐屯地に隣接した自衛隊の官舎。
右: 日赤病院。父が盲腸の手術をした。当時と建物はまったく変っていないようだ。

左: 国道4号線に面した専売公社の大きな倉庫。
右: 小柳病院。かつてはこの近辺で一番大きな建物だった。

道がかなり良くなっていて、昔の地形をなぞるのが難しい。古河第三小学校の交差点を過ぎ、小柳病院を発見。十三間道路のはす向かい、第一高等学校に隣接した土地に我が家があった。今は父の自衛隊時代の同僚が住んでいる。懐かしい。庭の感じもあまり変ってないと思う。じーんと来る。その隣家はやはり父の同僚の住居だ。声を掛けてみたい気もするが、二十年の歳月が達っているし、幼少の頃の私の存在感がどれ程のものかを考えると躊躇せざるを得ない。

道がかなり良くなっていて、昔の地形をなぞるのが難しい。古河第三小学校の交差点を過ぎ、小柳病院を発見。十三間道路のはす向かい、第一高等学校に隣接した土地に我が家があった。今は父の自衛隊時代の同僚が住んでいる。懐かしい。庭の感じもあまり変ってないと思う。じーんと来る。その隣家はやはり父の同僚の住居だ。声を掛けてみたい気もするが、二十年の歳月が達っているし、幼少の頃の私の存在感がどれ程のものかを考えると躊躇せざるを得ない。

左: 路地から、見覚えのある大きなケヤキが・・・。
中: 大蓋宮の欅だ。根元に小さな祠がある。
右: 古河駅東口の富士銀行のビル。東口ではこの建物が最大。

犬に吠えられた。こちら側が勝手に懐かしがってるけど、やはり余所者なのだ。犬には余所者を排除する役目がある。写真を撮り、かつしっかり瞼に、かつての自宅を焼きつけ、再びバイクに跨る。渡良瀬川に行ってみることにした。よくおやじの運転するバイクの後ろに乗って釣りに行ったっけ。景観は曖昧だけどなんとなく結構覚えているもので、あるいは方向感覚がしっかりしているのか、するするっと間違いなく渡良瀬川のほうに進んでゆけた。

踏切を渡る。昔は無人踏切で事故が多かった。そして、この辺りは一面葦の原っぱだった。今は家が立ち並んでいる。風が冷たい。大きな橋が見えてきた。三国橋だ。小さい頃、何度ここに来ただろうか。橋の下にボート屋があって、そしてトロッコの軌道が土手を走っていた。緩やかな渡良瀬川の土手でたんぽぽを摘みながら父の釣りをぼんやり見ていたあの頃。そこが遊び場だった。

左: 渡良瀬川の土手から遊水地の方向を眺める。遥か遠くに北関東の山々が薄っすらと見える。
右: 三国橋。この土手にかつてはトロッコが走っていた。向こう岸が古河市街。
(この写真は冒頭に使っているものと同じ。)

左: 東武線の新古河駅。駅を降りるとすぐに渡良瀬川の土手に出る。
右: 駅前にぽつんと一軒ある雑貨屋。奥に土手が見える。普段は寂しいところだろう。

橋の北側を少し行くと遊水地になっている。どんどん陽が傾いてゆく。風がびゅうびゅう吹き荒れる。いつ出来たのか、遊水地の入り口に大きな水門。その向こうが広大な遊水地である。遠くに薄っすらと赤城山が見えた。赤城おろしの空っ風とはよく言ったものだ。まさにそんな感じだ。この季節なのに、まだここは北風が吹きまくっている。まだ一面が枯れ草色をしているので、風景全体も殺伐としている。行ったことはないけれど、オホーツクの流氷はこんな感じなのだろうか。
(このとき赤城山と書いているが、ひょっとすると男体山かもしれない。)

暮れかかる空の下に古河の街並みがあった。水面が不規則に細かい波を立てて、びゅびゅう鳴いている。水門のところに立つと、古河の街が下のほうに見える。稲荷神社や名物の大ケヤキが赤く染まって見える。西の雲ひとつない空の下に関東平野は続いていて、その中に真っ赤に燃えた大きな火の玉がぶるぶる震えながら、今まさに沈んでゆこうとしている。タバコに火をつけようとするが、強い風でうまくゆかない。

寒くなってきた。冷え切ったバイクに一発命を吹き込んでやる。低く唸ってエンジンに命が宿る。懐かしい、そして哀しい、暖かくも荒涼としたこの景色を心に、帰宅の途に就く。今度はいつここに来ることが出来るだろう。ひょっとするともう来ないかもしれない。そんな哀愁を、沈んでゆく頼りない夕陽が暖かく見守ってくれているように思えた。土手を走り始める。名残惜しいが古河の街はどんどん離れて行く。

東京に向かう。国道4号線を南下する。ちょうどあのときのように暗い道を走る。トラックの窓から見たあの頃の景色がオーバーラップしていた。バイクを何度も止めて、振り返った。古河から離れてゆくに従い、段々現実の世界に戻ってきたような気分になった。利根川を渡って、栗橋を過ぎた辺りで、いきなりスロットルを全開にして火を噴くような勢いで走る。まるで過去を振り切るかのように。


左: 渡良瀬遊水地の水門。
右: どこまでも果てしなく続く遊水地。地平線が見えそうだ。

以上、旅行記というよりも私小説的になってしまったが、紛れもない1982年の私の古河への小旅行記である。当時は世田谷に暮らしていた。従って、世田谷から古河までの往復だ。このときの相棒は名車、SUZUKIのハスラー(TS-250)だった。足代わりとして、中古で購入。次期のHONDA XL-250Rを新車で購入するまでの約5ヶ月だけの所有だった。当時の写真が1枚も無いので、ネットから採取したものを貼り付けておく。

右写真:Motorcycle USA Com より

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2007/10/27
(1982/3/29 著  Zaki)



Zakiさんについて

たぶんものすごく寂しがりやだと自分では思うのですよ。大勢でいても、いつも孤独感を感じる。だから旅に出る。もちろん一人旅。だから、自分の写真が無い。写っているのは風景だけ。でも、それらの写真を見れば、そのとき自分がどんな心理状態だったかつぶさに思い出す。かっこよく言えば、心象風景なのです。

一応、ベイタウン中年バンドというロック中心の音楽サークルの代表やってます。あと、俺達のホームページのスタッフです。仕事は適当に、あとはひたすら面白いもの探して歩いてます。最近凝っているのは、野菜炒め。キャベツのしゃきしゃきっとした感覚がたまりません。
 

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